元日本代表FW前田遼一がすべてを語った「アジア杯優勝と遅咲きの矜持、そして引退決断」(元川悦子) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース 元日本代表FW前田遼一がすべてを語った「アジア杯優勝と遅咲きの矜持、そして引退決断」(元川悦子) - Yahoo!ニュース Yahoo!ニュース (出典:Yahoo!ニュース) |
前田 遼一(まえだ りょういち、1981年10月9日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはフォワード(FW)。元日本代表。 兵庫県神戸市で生まれる。1歳の頃からアメリカへ転居し、小学1年生までの6年間をロサンゼルスで過ごす。日本へ帰国し小学2年生からは東京都 67キロバイト (7,585 語) - 2021年1月14日 (木) 08:16 |
2021年1月14日、FC岐阜から1人の大物ストライカーの引退が発表された。
元日本代表FW・前田遼一、39歳。
彼が最も輝いた大会の1つが、優勝した2011年のアジアカップだ。全試合に先発したエースは、歓喜の輪の中で、何を感じていたのか、ザックジャパンのメンバーを外れてから感じた違和感とは。
そして、21年のプロキャリアと日本代表への思いはどのようなものだったのか……。
「求められているうちはやりたい」と引退発表直前に行われた本インタビューで現役続行への意欲を口にしながら、古巣・ジュビロ磐田で指導者の一歩を踏み出す決断をした偉大な点取り屋の矜持を今、ここに伝える。
2009・2010年連続得点王が代表で初めて手にしたアジアタイトル
今から10年前の2011年アジアカップ(カタール)。アルベルト・ザッケローニ監督の下で1トップの一番手を務めたのが、前田遼一だった。ジュビロ磐田に在籍した2009・2010年にJ1で2年連続得点王に輝いた男が日本代表のエースになるのは、むしろ当然のなりゆきと言っていい。
しかしながら、本人の中では「ラストチャンス」の思いが強かったという。
――日本が4度目のアジア王者に輝いたカタールの激闘から10年が経過しました。
「『もう代表は最後。結果を出さないと終わりだ』という気持ちでしたね。自分より上の人はヤット(遠藤保仁=磐田)さんくらいで、同期もダイ(松井大輔=サイゴンFC)と岩政(大樹=上武大監督)だけ。年齢的には上だけど、若手みたいな気持ちでガンガン行こうと練習から取り組みました」
――南アW杯メンバーの本田圭佑、長友佑都(マルセイユ)らは鼻息が荒かったのでは?
「『上に行くんだ』というギラついた感じはすごかった。特に圭佑はそうでした。その前年のオランダ遠征で俊(中村俊輔=横浜FC)さんに『FKを蹴らせてくれ』と要求した時も、練習中から『対等』という意識でやっていたから『やりそうだな』と僕は見ていた。自分が若い頃、中山(雅史=ジュビロ磐田コーチ)さんやタカ(高原直泰=沖縄SV)さんに同じことができたかと言えば、そういう文化はなかったけど、今思えば一番大事なことかもしれないなと感じます」
(出典 i.imgur.com)
「ぬるかった」と感じた初戦・ヨルダン戦からの意識の変化
――アジアカップは初戦のヨルダン戦から大苦戦を強いられました。
「僕は前半だけで代えられたので、『もう出番はないんじゃないか』という気持ちでいました。求められたことができなかった印象が強いですね。フォワードである僕に求められる役割は『チームのために戦うこと』だったのに、そこをはき違えていた。前線からの守備や攻守の切り替え、攻撃時につぶれて起点になる仕事もやっていたつもりだったけど、ぬるかった。『もっと厳しくやらないとダメだ』と強く反省しました」
――それでも次のシリア戦も先発出場、グループステージ最終戦のサウジアラビア戦では大会初ゴールを奪います。
「シリア戦は先発でまた使ってくれたザックさんからの信頼を感じたし、とにかく試合に勝って貢献しないといけないという思いでした。サウジ戦での得点で『やっとチームの一員になれた』という思いが強いですね」
――その後、決勝トーナメントも緊迫感ある試合の連続でしたが、前田選手が大会2点目を奪ったのが準決勝の日韓戦でした。
「朴智星もいたし、ホントに豪華な日韓戦。絶対に勝たないといけないという気持ちでした。それまで先発でずっと出してもらっているのに足を引っ張っている意識があったので、プレーで証明したかった。自分が決めた同点ゴールは佑都のマイナスのボールに合わせる形でしたけど、サイドのクロスからの得点はザックさんからも期待されていた。ようやく応えられたと思いました」
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1/15(金) 11:00
https://news.yahoo.co.jp/byline/motokawaetsuko/20210115-00217653/
は?
遅咲きも何も前田と阿部は若くしてトゥルシエにA代表抜擢されていた大物なんじゃが?
>>10
注目はされていたけど
阿部は既にクラブで中心選手だった一方、前田はクラブの黄金期とケガが重なって出番は少なかった
(出典 i.imgur.com)
■前田遼一(まえだ・りょういち)
1981年10月9日生まれ。兵庫県神戸市出身。小学3年生でサッカーを始める。暁星高校卒業後の2000年にジュビロ磐田入団。2009、2010シーズンにJリーグ得点王を獲得した。磐田退団後の2015年にFC東京に移籍。2019年からはFC岐阜に移籍したが、2020年12月に契約満了により退団。2021年1月14日に現役引退を発表した。日本代表では2007年にA代表初選出。2011年のアジアカップでは全試合に先発出場して、優勝に貢献した。
派手さはないけどいい選手だった
ゴンが磐田に戻るのが大きそうだな
欧州イタリア組の仲良しグループが代表牛耳ってる時代だったからな
佐藤寿人らと並んで本来W杯に出れた選手の1人
テクニシャンってイメージだったのにいつの間にかストライカーになってた
遅咲きというかジーコが師匠高原柳沢大黒とか謎メンツに拘らなければ普通に抜擢されてた選手。
前田、山瀬、阿部は飛び級招集されたりで、早くからフル代表の主力になると思いきやまともに主力格になれたのは辛うじて前田だけだったな
山瀬は怪我続きでたまにしか選ばれず、阿部はW杯以外は基本控えだったもんな
>>20
山瀬は飛び級招集の経験ないぞ
2006年が初招集
>>20
阿部は2007年のアジアカップでCBのレギュラーだったはず
>>65
あれは闘莉王が怪我して、あくまで代役的に使われてたんだよな
中盤は憲剛、鈴木啓で固定してたし、恩師のオシムでさえ阿部を主力で使う事してなかった
おまけにリーグでバリバリ活躍してた前田や山瀬も呼んだり、呼ばなかったりで好き嫌い激しい印象あったわ
>>65
>おまけにリーグでバリバリ活躍してた前田や山瀬も呼んだり、呼ばなかったりで好き嫌い激しい印象あったわ
特に前田は怪我がちだったからな
オシムご指名お気に入りの腰痛持ち松井もそうだが、飽くまでワールドカップが全てのオシムは無理して呼ばない方針だった
数少ない頭でドーンできるひとだっけ
縦に速くではなくボール握るサッカーに代わっていったのなら、なおさら収まる前田を使い続けていた方がよかったんじゃないかと思う
前田が居た頃のザックジャパンが一番良かった
>>23
本戦以外のザックジャパンが一番見てて楽しかったな
点が入る。勝てる。
穏和な感じが指導者向きな気もする
技術はあったが全盛期だったジュビロの後を真面目についてくだけでチームを俺が勝たせようという意識が弱かったそれから大人しいチームになって今も続いてる
>>30
ホットラインが駒野→前田だからな
ピッチ外だと存在感が消える二人w
もっと早くからストライカーの適性に気付いてればな
上手いからトップ下の固定概念に縛られたわね
前田のプレスが無くなってから弱くなった
本田の下手な守備と足の遅さを前線からのプレスとショートカウンターでゴマかせてたのにそれが無くなった
ヤットが中盤の底だとPA付近まで簡単に押し込まれる
今野、ヤットのフィジカルが弱いから前線で勝負するしかなかったのだが・・・
アテネ五輪のUAEラウンドでほとんどの選手が下痢と高熱に悩まされて点滴打ってプレーしてたのに
今野と前田だけ普通に飲み食いして普通にプレーしてたんだよな
>>37
鋼鉄の胃袋を持つ前田はともかく今野は意外w
アジアカップ韓国戦の本田→長友→前田のゴールは素晴らしかった
あれが日本代表の究極形だと思う
前田はもっと代表でも活躍出来る才能あったと思うんだけどな
本人も言ってるけどメンタルとかモチベーションとかが足りなかったか
この人はよかった
ブラジル大会も行ってほしかった
海外挑戦に関して当時はそんな時代じゃなかった感出してるけど言うほどか?
むしろ海外バンバン行きだしてるときじゃない?
>>81
当時まだ20代前半の本田や香川はプロデビューの頃から海外を目標に鍛えていても、もう30代の
前田は日本で終わるつもりの意識しか無かったんでしょ。
実際、前田のアテネ世代で海外に行ったのは阿部、松井、大久保、平山くらいで、長期間居られた
のは松井だけだし。次の北京世代は吉田、長友、内田、細貝、本田、香川、岡崎、森本、李と、
倍以上も居るから、この4~5年の意識の差は大きくて、ただただビックリだったんだと思う。
だからまあ、ファンは彼がレギュラーの時にアジア杯優勝して、絶対必要不可欠な選手に見えてても、
本人は彼らに付いて行くだけで一杯一杯だったんだろうな。年上の新人という難しい立場もあったし。
>>81
前田が得点王取ったのが2009年2010年。
当時は海外移籍冬の時代で2000年以降に海外出た黄金世代も
どんどん戻ってきてて2010年大会の海外組は本田、長谷部、森本、松井の四人だけ
2010年大会を皮切りにまた海外移籍は増えたけど30手前になった前田は既に海外移籍は厳しかった
インタビュー読むと代表や海外でやれるメンタルやなかったんやな
もうちょいガツガツした性格ならなあ
逆に温厚な性格でよくやったな
電通の力やマスコミのゴリ押し無しで完全に実力だけで代表スタメンまでいった
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